職員室

リレートーク

にちがくの教職員によるリレートーク
~学校生活、そして日常を語り繋ぎます~

2017-09-29

「日米戦争の回避に尽くした日本学園OB」神戸先生(高1学年主任・社会)

明日から始まる日学祭において、本校の資料室(1号館2階)では特別企画展「駐米大使 斎藤博 〜国難の時代 日米親善に命を捧げた〜」が開催されます。

斎藤博(1886〜1939年)は1903(明治36)年に旧制日本中学校を卒業した本校OBです。外交官となった斎藤は1931(昭和6)年9月に起こった満州事変以降、日本とアメリカ合衆国の関係がしだいに悪くなるなか、駐米大使に任命されました。

1937(昭和12)年12月12日、日中戦争が始まって5ヵ月後、日本海軍航空隊の爆撃機が南京近くの揚子江上でアメリカの砲艦パネー号を撃沈するという事件が起こりました(日本側は誤爆と主張)。アメリカの対日世論は悪化しましたが、当時駐米大使だった斎藤博はラジオ放送で誠心誠意アメリカ国民に謝罪し、日米の衝突を避けることに尽くしました。日米関係改善に努めた斎藤はアメリカ側からも高く評価されていたようで、1939(昭和14)年2月に斎藤がワシントンで病死すると、アメリカ政府は遺骨を巡洋艦「アストリア」で丁重に日本まで送り届けています。

斎藤の死をきっかけとして両国は束の間の友好ムードに包まれたのですが、生前の斎藤の願いも空しく、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃によって、日本はアメリカ・イギリスなど世界の国々とアジア太平洋で戦うことになります。

阿川弘之の小説『軍艦長門の生涯』(新潮社、1975年)の中で、斎藤は山本五十六(太平洋戦争時の連合艦隊司令長官)の同郷(新潟県長岡市)の旧友として登場します。この小説にはパネー号事件のことが出てくるので、私も斎藤の名前は知っていましたが、今回の特別企画展を通じてより詳しく知ることができました。昭和初期に首相をつとめた若槻礼次郎の著作『明治・大正・昭和政界秘史〜古風庵回顧録〜』(講談社、1983年)を読むと、1930(昭和5)年ロンドン海軍軍縮会議における若槻全権の通訳として斎藤の名が出てきます。若槻が語るところによれば、斎藤は重要な首脳会談に立ち会い、単に通訳をつとめるだけではなく、外交官として若槻に適切なアドバイスをしていたことが分かります。

21世紀になっても戦争のない世界はまだ実現していません。この特別企画展をご覧いただいて、国際平和のために外交官人生を捧げた本校の卒業生に思いを馳せていただければ幸いです。